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02 February

歯車のモチーフ

大学1年生の秋から冬にかけて私は時計の図録をよく眺めていました。

特にスケルトンモデルという、時計の内部がまるっきり見えているタイプの時計を好んでいました。

その時は単純に時計の内部の洗練された何一つ無駄のない構造にときめいていたのです。

 

それから少しずつ私の中で、歯車のモチーフは違った意味を持ち始めました。

歯車というものは、壊れたり噛み合わなくなればすぐに同じ役割を果たすものといつでも交換可能な存在です。それでいて寡黙で、壊れる直前まで働き続ける様はどこか哀愁を誘います。

 

しかし代替可能な物であると同時に、歯車は隣り合う歯車や滑車と連動することが出来ます。一つだけ転がっていても、歯車は歯車として動き出すことは出来ません。

それは遠く離れているようにみえる、一見無関係な歯車同士が実はつながっていると考えることも出来ます。

携帯電話を初めその他見えないネットワークでもって、人との繋がりを求め誰かと接したがる私たちとどこか重なっているように、思えます。

 

また色々あって、歯車と同じように私自身が代替可能な存在なのではないか、と考えて、考え疲れていた時期がちょうど大学3年生の夏から秋口でした。

その頃描いていた作品が「Flux(流転)」です。

私自身の記憶も感情も1枚のCDに焼けるものかもしれない、という想像。(もちろん無理な話ですが)自分は代替可能なのだと感じることがこれだけ苦痛なのならば、いっそ初めから私は私でなければ良かった、私は歯車のようなモノならば良かった、という想像。そこからこの作品が生まれました。

自分の仕事がいつでも誰かと代替可能であるがために、自分が希薄になりやすい社会なのだ、と国語のテストの問題文で読んだような記憶もあります。

そして「今日自分は、他人を代替可能なモノのように扱わなかっただろうか?」と、

私は眠る前に毎日反芻するのです。


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