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02 February

歯車のモチーフ

大学1年生の秋から冬にかけて私は時計の図録をよく眺めていました。

特にスケルトンモデルという、時計の内部がまるっきり見えているタイプの時計を好んでいました。

その時は単純に時計の内部の洗練された何一つ無駄のない構造にときめいていたのです。

 

それから少しずつ私の中で、歯車のモチーフは違った意味を持ち始めました。

歯車というものは、壊れたり噛み合わなくなればすぐに同じ役割を果たすものといつでも交換可能な存在です。それでいて寡黙で、壊れる直前まで働き続ける様はどこか哀愁を誘います。

 

しかし代替可能な物であると同時に、歯車は隣り合う歯車や滑車と連動することが出来ます。一つだけ転がっていても、歯車は歯車として動き出すことは出来ません。

それは遠く離れているようにみえる、一見無関係な歯車同士が実はつながっていると考えることも出来ます。

携帯電話を初めその他見えないネットワークでもって、人との繋がりを求め誰かと接したがる私たちとどこか重なっているように、思えます。

 

また色々あって、歯車と同じように私自身が代替可能な存在なのではないか、と考えて、考え疲れていた時期がちょうど大学3年生の夏から秋口でした。

その頃描いていた作品が「Flux(流転)」です。

私自身の記憶も感情も1枚のCDに焼けるものかもしれない、という想像。(もちろん無理な話ですが)自分は代替可能なのだと感じることがこれだけ苦痛なのならば、いっそ初めから私は私でなければ良かった、私は歯車のようなモノならば良かった、という想像。そこからこの作品が生まれました。

自分の仕事がいつでも誰かと代替可能であるがために、自分が希薄になりやすい社会なのだ、と国語のテストの問題文で読んだような記憶もあります。

そして「今日自分は、他人を代替可能なモノのように扱わなかっただろうか?」と、

私は眠る前に毎日反芻するのです。


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30 December

ヘロンの遊戯機械

タイトル「ヘロンの遊戯機械」のヘロンは、アレクサンドリアのヘロンと呼ばれるギリシア人で工学者・数学者という肩書きを持つ人名です。(生没年不詳)

彼は蒸気の仕掛けや圧搾ポンプを発明した人物ですがその傍ら、発見した原理を用いた遊戯機械を作っています。詳しくは省きますが、純粋に「遊戯」目的の大掛かりなもので、何か他の実務的な事の役には立ちません。

 

私の描く歯車も実際に動き出して動力を生むことはありません。けれど何かに使役されることから解き放たれて、遊ぶこと(遊戯)が一切なくなると、世界はどれだけ無味乾燥と殺伐とすることでしょう。

 

私の郷里では絵を描くことに関して理解を示してくれる人は多くありません。ともすれば「生活の役に立たない」「知らなくても出来なくても生きていける」と、暗にまたははっきりと言われる事もよくある話です。

そう言われた時私は曖昧に笑って、仕方なく相槌を打ちます。

 

けれど私にとって絵を描くことは「役に立たない」ことでも「出来なくても生きていける」ことでもないのです。

それは絵を描いてもしくは何かを創り出している人にとって、この言葉はその全てを否定していると私は思うのです。

 

「歯車を描く」ということは現実には動力を生むことのない、傍から見れば無駄な作業に見えるかもしれません。しかし今の私にとっては、その工程が生きていくのに必要な動きなのです。

歯車を描いているとき歪な私自身が一つの歯車となったかのような、安心・陶酔・救いが綯い交ぜになった、他では得難い程の穏やかな気持ちを得ています。そうして、時に消えてしまいたい思いに駆られた私を今まで何度踏みとどまらせたかしれないのです。


 

22 December

「塔」シリーズ


ラプンツェルは塔に閉じ込められ、バベルの塔は崩壊し、タロットでは正・逆位置どちらもネガティブな意味合いをもつ塔というものは、いつか崩れることを予感させるような、どこか不穏な雰囲気を人に与える存在のようです。
このシリーズで描こうとする塔とは、2つの塔からなるシリーズとしています。ひとつは送電線の鉄塔、ひとつは象牙の塔(のような首)とを女性を重ね合わせたイメージを描いています。

 
私の現在のアトリエ近くには、送電施設があるために送電線の鉄塔がはるか遠くまで無数に立ち並んでいます。その風景は私が子供の頃から変わらず、地元では電柱しか見たことのなかった田舎の子供にとってはインパクトのあるものでした。夕方から夜になると、赤く点滅する光も非日常的で印象深いものでした。
私たちの頭の上には暗闇を照らしいつでも見守るように、電球、電灯が浮かんでいます。夜が明るくなること以外でももちろん、電気の存在は私たち様々な豊穣を与え続けています。
その電気を送るために、たくさんの腕を広げ大地に立っている大きな女性、私たちを頭上から見おろす地母神のようなイメージ、なくてはならないライフラインを司っていると同時に握られているという畏怖畏敬、それが送電鉄塔に対して私が抱くイメージでした。
 
象牙の塔(仏:la tour d'ivoire)、とは「ソロモンの雅歌」74節の「なんじの首は象牙の塔の如し」から女性の美しさを称える言葉でした。それを「象牙の塔にこもる」という言い回しで文芸批評家サント・ブーブが詩人ビニーの態度を批評したことで、転じて現実からかけ離れた夢想、学者や芸術家が周りの社会と関わらず閉じこもって研究に耽る様子やその研究室の比喩として使われるようになりました。
細く長い首、というのは私の記憶の象徴です。私の母は細くて長い首であり、弟がそれを引き継ぎました。私は細くて長い首、母に似た容貌が欲しかったし、周囲からもそう見られていたかったのです。しかしそれはどう望んでも手に入りませんでした。
そして現在の私はと言えば、物理的にも精神的にも象牙とはほど遠い粗末な塔を日々築き、閉じこもって絵を描くことばかりしているわけです。それらを取り合わせたイメージが私にとっての象牙の塔なのです。






22 December

Touch me if you can?シリーズ

 

このタイトルを聞いて、ピンと来た方も多いと思いますが、2002年公開の映画「Catch me if you can?」のもじりです。

まずこの映画について少し語ると、「世界をだました男(フランク・W・アバグネイル・Jr著)」を基にした作品です。天才詐欺師であるフランクは息をするように嘘をつき、ひらりひらりと追手となるハンラティを含めた周囲の人間を煙に巻き、真実を悟らせません。

Catch me~」というタイトルとなったフレーズは、「できるもんなら捕まえてみろ」という意味となり、鬼ごっこの逃げ手の掛け声にあたるものだそうです。さて映画の結末は各人で確認していただくとしますが、このタイトルが妙に気にかかり私はずっと覚えていました。

物理的にあたかもそこに物があるように、触れて操作できるタッチパネルが生活の中に普及してずいぶん経ちました。今はスマートフォンや携帯ゲーム機等、手に収まる程小さなタッチパネルが日常のものとなり、それ以外でも様々な場所で使用する機会も増えました。

東京へ向かう電車の中で対面に座った数人の乗客が並んでスマートフォンを使っている様子をぼんやりと見ていてこのシリーズを思いつきました。

画面上でその乗客たちは11人異なった様々な作業をしていたでしょう。しかし画面を覗き込む視線、触れる指は必死に何かを探して追いかけるように、同じように動いているのです。その様子はとても興味深く、多くの想像と感情を私にもたらしました。果たして、私たちの探していた何かはタッチパネルの奥でみつかり捕まえられるのでしょうか? 

 
 

 
     
 

22 December

「夢の宇宙誌 コスモグラフィア・ファンタスティカ」シリーズ

 このタイトルは澁澤龍彦の「夢の宇宙誌 コスモグラフィア・ファンタスティカ」からそのまま勝手にお借りしているため、本の好きな方や澁澤龍彦のファンの方が気づいてくださることが多い作品です。

私自身ももちろんこの本が好きで読んではいるのですが、絵の内容と本の内容を一致させるつもりはあまりなく、ほぼタイトルから派生するイメージを描いたものがこのシリーズ作品となっています。
 
まだ多くの事象が謎のままで解明されず、科学の光が淡く、夜と迷信の闇が濃密だった時代に、人間の想像力は不思議な生物や説話を産みました。

その今では考えられないような諸々に、現代の私が書籍や図版で触れる時には、新鮮な驚き、そして逆に人間が古今東西似たものを生み出すことを、人と繋がり関わっていることを知り、どこか安心するのです。

「人間の想像し得ることは現実に起こり得る」という言葉を掲げ、ロボット工学ラボには片隅にSFマンガや小説が置いてある、という話をどこかで聞いたことがあります。想像が現実に追いつくのか、現実が想像に追いつくのか、果てのない追いかけっこはこれからも営々と続いていくのでしょう。
 


        
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